図工教室とは? ATELIER CHIBIKURO - WHAT'S ZUKYO

 アトリエちびくろの図工教室とは、アトリエちびくろが毎年夏と春の年2回行う合宿のことです。
 東京でのふだんの活動に参加してくれる子どもの中から希望する子を募集した約20人くらいと、開催する茨城県岩間町の子ども達にも募集をかけ約70から100人、さらに学生も合わせると多い時には150人くらいが集まります。小学校の休みに合わせて夏は7月終わりから8月中ごろの約2週間、春は3月終わりから4月の始まりぐらいの1週間程度の期間があります。

図工教室
 内容は年によって様々で、その年々の学生がアイデアを出し合います。絵を描く、ねんどで器・オブジェをつくり焼く、服を作る、楽器を作る、というような「図工教室」=工作的な内容はもちろん、竹や木でじぶん達の泊まる小屋を作ったり、近くの川で泳いだり、きもだめしをしたり、子どもも学生も泥まみれで遊ぶ”泥プール”や、山登りやキャンプといった冒険的なことも含め、”分校”の中だけでなくその周辺の自然を大いに体験する内容を行っています。
 図工教室ごとにオリジナルの「活動ダンス」を作り、毎日踊ります。はじめはなかなか覚えられなくて踊れなくても、図工教室が終わるころにはたくさんの子がめいっぱいに踊るようになります。
 図工教室のスタートは1973年までさかのぼります。もともとは夏の図工教室だけでしたが、分校をお世話してくれた岩間の方々への感謝の意味で”春祭り”を開催するようになり、それが発展して春にも図工教室を行うようになったようです。
 「アトリエちびくろ」自体にも言えることですが、スタートから30年以上経ち、内容、方針、形態は大きく変わって行きます。事実、東京の子ども達も参加するようになったのは1981年ころからで、図工教室は当初岩間の子たちだけを対象に行われていたようです。現在は大学生くらいの年代のひとたちと小学生が一つの場所に一緒にいる事でどんなおもしろい、楽しい、お互いに刺激になる事ができるかを考えながら分校に集まります。それぞれの年の学生の試行錯誤の上になりたっています。

分校
 開催する場所はかつて小学校の分校として使われていて、今は廃校になった「岩間第一分校跡」。廃校になったあとも建物は残され、町の人たちに公共施設や公民館として、また公園として使われています。
 東京から参加する子どもはこの校舎に泊まり、学生といっしょに生活をしながら過ごします。岩間の子ども達は自宅から通いで参加します。
 学校としては1983年、岩間第一小学校(本校)に統合され、廃校になりました。はじめ取り壊す予定だったようですが地元青年会や分校に関わっていた人たち、当時のちびくろの学生たちの働きかけにより存続することになり、同時に管理人が住み込むようになりました。
 以後ちびくろのOBなどが管理人を歴任して建物の補修、管理をおこない、陶芸教室・絵画教室・展覧会・ ワークショップ会場・クロッケー場などとして活躍しています。


岩間第一分校跡 / 2004年5月撮影


お祭り
 夏の図工教室、春の図工教室ともに、期間中に子どもと学生で作る祭りを開催します。祭りでは図工教室期間中に作ったものの発表をしたり、子どもが自分で運営するお店を出したり、学生が子どもと一緒になってステージで出し物をしたりします。
 毎回違うテーマを設け、それにあわせて会場をかざりつけます。例えば2002年度春の図工教室のお祭りでは、テーマを「光の森」として夜祭を開催しました。詳しい様子は各年の図工教室のページをご覧ください。
 夏のお祭りでは学生たちがやぐらを組み、その上で太鼓をたたき、地元岩間に古くからつたわる盆踊り「ちりから」を踊ります。ご近所から臼と杵を借りてきて、学生、親御さん、子ども達でつく餅つきをします。


まつりの様子 ステージ / やぐら


生活
 分校での生活も参加する学生、子ども両方にとって大きな魅力です。ガス・水道・電気は設備されてはいますが、図工教室期間中はその大人数の生活のために薪と五升釜でご飯を炊き、薪で沸かした五右衛門風呂に入ります。春の図工教室は季節としてはまだ寒く薪のストーブが大活躍します。
 ご近所からいただいた、まさに産地直送の野菜や、学生自ら摘んできた野草、校庭に作ったミニ菜園で育てた野菜を、学生たち自身で調理します。子どもも食事当番に加わることもあります。学校が現役のだったころの給食室を台所として使い、東京の子と学生だけでも4〜50人分、岩間の子が加わる場合はさらに大人数の食事を作ります。学生も子どもも普段体験できない生活を「図工教室」、「分校」という場で送ります。
 もともと分校は「暮らす」ための建物として作られてはいないのでさまざまな工夫が必要ですが、それ以上に図工教室期間の1・2週間生活を共にすることは参加した人にとって特別な記憶を残します。(準備・片付けを含めればほぼ1ヶ月間を分校で過ごす学生もいます)
 分校で使う食器のほとんどは手作りです。美術大学のサークルであるちびくろや美術方面の人間が多く関わっていて、歴代の管理人の中にも陶芸作品を作る人がいたこともあり分校には「焼き物釜」があります。分校で使われているお皿、器、コップの多くはここで作られました。たくさんの種類のゆうやくや乾燥棚など陶芸用具がある元教室は「ねんど部屋」という愛称で親しまれています。
 また図工教室期間中を分校で過ごす子ども達は1日目に自分が食事をする箸を自分で作ります。

がくせいとこども
 学生が担う役割も多いですが図工教室での子ども達は単なる「生徒」でも「お客さん」でもないのです。自分が使った工具、食器、荷物は自分で片付ける、年下の子のめんどうを見る、など自分でするべきこと、できる範囲のことは子ども自身にまかせています。
 かつては造型教育研究を目的としてプログラムを組んでいたころもありますが、今のちびくろでの「がくせい」と「こども」は、「大人」と「子供」でもなく「先生」と「生徒」でもないと考えます。「図工教室」、「分校」という場に居合せた図工教室の期間中を一緒にめいっぱい楽しくすごす「仲間」と言えます。もちろんこどもだけの力ではできないことや解決できない事もあります。その時学生は「指導」や「注意」ではなく、一緒に考え、工夫し、取り組みます。


 この図工教室、当初はちびくろの前身「美術教育クラブ(1973年当時)」が『都会の子ども達と農村地域の子ども達と一緒に生活して比較研究をしてみては』との考えから始まったようです。
 なぜ岩間だったかというと、当時武蔵野美術大学に美術教育法などの担当として赴任した村上暁郎教授が岩間町に仮称芸術の村を作るという計画に参加されていたことがきっかけでした。当初は野外活動や、町内の公民館などで開催していましたが、評判が広まり参加希望者が400人を超え、規模が大きくなったため町の東にある東大付属牧場を借りるようになったそうです。そのうち 1975年には上郷地域と教育委員会の協力で、第一分校が活動拠点になり始めます。1983年、分校自体は廃校になりましたが図工教室は分校を拠点としてずっと続いています。はじめは岩間の子ども達だけだったようですが1981年ころから東京の子ども達も参加し始めました。
 現在は市町村合併により岩間町から笠間市へ、岩間第一分校跡から「体験学習館・分校」に生まれ変わり、活動を続けています。

 ちびくろの図工教室が現在まで続けられたのは歴代の学生、管理人、参加してくれるこども達、こども達の親御さん、差し入れを頂いたり色々な知恵や道具を貸してくれる岩間第一分校のご近所の方々、様々なかたちで御尽力頂いてる岩間町役場の関係各所の皆さんのおかげです。ありがとうございます。



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